あらためて整理しておきたいこと
最近、このサイトに記事を書くことがめっきり少なくなりました。かつてのブログ時代やその前のホームページ時代は自分の考えや感じたことを日記や文章にして発信することが、ごく自然な習慣になっていたのですが、気づけばその場はどんどん減ってきてしまいました。
一方で、YouTubeにはKANさんの楽曲をカバーした動画を少しずつアップしています。けれども、それは「ただ置いてある」状態にとどまっているようにも感じます。どうして自分がこの活動を続けているのか、その理由や目的を整理しないまま積み重ねていることに、どこか懸念を覚えるようになっていました。
そこで今回は、自分がなぜKANさんの楽曲をカバーし、動画として公開し続けているのか・・・その意味をもう一度言葉にしてみたいと思います。
KANさんの遠い星への旅立ち
KANさんが遠い星へと旅立たれたという知らせを受けたとき、誰もがそうだったと思いますが、その衝撃はあまりに大きく、すぐに気持ちを整理することができませんでした。このサイトでも未だに一切触れることもできず、気づけばもう二年近くもの時間が流れてしまっていました。ファンとして大切な存在を失ったことについて、それは簡単に言葉に整理できるものではなく、ふいに言葉を並べたところで、誰かを傷つけてしまうのではないかと恐れることもあり、ただ日々の中で静かに抱え続けるしかなかった状況でした。
ご存じの方もあると思いますが、私は、カバー動画を作ること自体は細々と続けていました。そのときの目的はまだおぼろげで、ただ「KANさんがビリー・ジョエルやビートルズに憧れを抱き、なりきるように音楽に向き合っていた」・・・その気持ちに自分も重ねていたに過ぎなかったのかもしれません。純粋に「この曲を演奏してみたい」「歌ってみたい」という動機が先に立ち、深い意味付けまではできていなかったと自覚しています。
しかし、KANさんの旅立ちをきっかけに、その活動の意味を見失い、一時はピアノから遠ざかってしまった時期もありました。「自分は今後どうやってKANさんを感じ、KANさんの音楽と向き合っていけばいいのだろう」・・・そう自問しながら、時間だけが過ぎていっていたように思います。
現在はようやく気持ちの整理ができてきました。やはり自分は、KANさんの楽曲を歌い、演奏することで、KANさんの音楽の存在を感じ続けていたいのだと。以前からカバーをする理由は同じだったはずなのに、あの出来事を経て、改めて「これは自分のライフワークなのだ」とはっきり意識するようになったのです。
最初はただKANさんみたいに歌いたかった
そもそも私がKANさんの楽曲をカバーしようと思ったのは、「自分もこの歌をKANさんみたいに楽しく歌ってみたい」「このメロディやコード進行をピアノでなぞってみたい」という、シンプルな衝動からでした。最初は深い理由があったわけではなく、好きな音楽をただ真似してみたいという気持ちに近かったと思います。
けれども実際にKANさんの楽曲を耳コピーしてピアノで弾いたり歌ったりしてみると、リスナーとして聴いているときには気づかなかった発見が次々にありました。歌詞の言葉の選び方や韻の踏み方や、メロディひとつひとつの丁寧な音価の決め方、独特のコード進行や無断転調(=転調したと気づかないようにシレっと転調すること)のテクニック、そしてピアノに表れるKANさんならではの手癖や、本人が施した巧妙なアレンジ・・・演奏者として身体でなぞることで、そうした要素とKANさんがそこに込めた意図や狙いが伝わってきました。
「KANさんが紡いだ楽曲は、演奏してみて改めて見える奥行きを持っている」と実感しました。カバーは単なる演奏の模倣ではなく、KANさんが音に込めた知恵や遊び心を追いかけ、間接的に同じ景色を覗き込む体験だと考えたのです。
リボンをつけて、見つけてもらいやすく
以前からこのサイトや、その前身となるブログやホームページの時代から繰り返し言ってきたことではありますが、私は「愛は勝つ」だけではなく、KANさんの楽曲全体にもっと触れてもらえる機会が増えたらいいな、という願いを持ち続けてきました。もちろん「愛は勝つ」が持つ力強さと普遍性は疑いようがありません。けれども、KANさんの音楽の世界はそれだけにとどまらず、実に多彩で、深い魅力を秘めた作品群に支えられています。繊細でユーモラスな歌詞、緻密で遊び心にあふれたメロディやアレンジ・・・さらに、コンサートに足を運べば、趣向を凝らした演出やエンタテインメント性の高いパフォーマンスに驚かされ、ただの「シンガーソングライター」という枠をはるかに超えた存在であることを実感できます。
私がKANさんの音楽をカバーするという言葉に込めているのは、ただカバーした行為をバトンのように継承していくということではありません。例えるなら、数多の音楽作品やその動画が流通する中、KANさんの素敵な作品の数々にリボンをつけて並べ、手に取りやすくしていくような感覚に近いと思っています。すでに存在する名作を、ちょっとした工夫で「見つけてもらいやすくする」こと。それが、自分にできるKANさんの楽曲との関わり方だと感じています。
カバー動画を公開することは、その手段の一つです。大切なのは決して「私が歌っている」という事実ではなく、「KANさんのこの曲がここにある」と示すこと。そうやってKANさんの音楽が、これからも誰かに届き、歌い継がれていくきっかけになればと願っています。
”KAN説的追体験”と”個人のKAN想”
楽曲カバーという行為を通じて得られる大きな喜びのひとつは「追体験」です。先ほども書いた通り、リスナーとして聴いているだけでは見過ごしてしまうような細部に、演奏者として向き合うことで改めて気づかされる瞬間があります。実際にピアノを叩き、歌っていると、KANさんがなぜその表現にたどり着いたのかを、全てではなく一部だとは思いますが肌で感じ取ることができるのです。
もちろん、それでKANさんの意図を100%理解できたことにはなりません。しかし大切なのは、すべてを見つけ切ることではなく、その一部でも汲み取ろうとする姿勢だと思います。分からない部分を残しながら近づいていく・・・その過程を楽しみ、結果を伝えることが追体験の価値だと感じています。
私はこの取り組みを「KAN説的追体験」と勝手に呼びます笑。そして、そこで得られた気づきや感情は、私自身の「個人のKAN想」として積み重なっていきます。
ありがたいことに、KANさんの作品にはセルフライナーノーツやラジオ番組でのコメントなど、ご本人による言葉が多く残されています。それらを読みながら解釈を深められる環境があることは、私たちファンにとって本当に幸せなことです。曲そのものとカバー演奏、そしてKANさん自身の言葉・・・この両方を得て、追体験はより豊かなものになっていきます。
こうした過程を経て改めて、「KANさんの作品はどうしてこんなにも心を打つのか」という問いに向き合うことができます。そして、その体験を共有することで、誰かがまたKANさんの音楽に触れるきっかけになるのなら、これほど嬉しいことはありません。
憧れは童心に帰ること
私がカバー活動を続けていく上で大きな支えになっているのは、KANさんご自身もまた「カバー」という行為を大切にしていた、という事実です。KANさんはビートルズやビリー・ジョエルに深い敬意と憧れを抱き、まるで本人になりきるかのように演奏し、歌い、時にはコスチュームも再現してステージで表現していました。その姿勢は単なる模倣ではなく、自分の音楽観を磨き、自作の楽曲に新たな厚みをもたらすための糧になっていたように思います。
憧れって、その漢字が示すように、童心に帰らなければ素直に憧れきれないものだと思います。KANさんが “なりきり” で歌い演奏しているとき、そこにはいつも子どものような純粋な輝きがありました。
そして不思議なことに、私自身がKANさんの楽曲を演奏するときも、精神年齢がぐっと若返る感覚があります。音に没頭し、ただ楽しく歌い弾く時間は、童心に返るような純粋さを思い出させてくれるのです。KANさんがビリー・ジョエルを追いかけたように、私はKANさんを追いかけている・・・その循環こそが、自分にとっての「KANイズム」の継承なのだと思います。
原曲へのリンクだけじゃ伝わらないことがある
カバー動画を公開することについては、時に「自己表現」や「承認欲求」と受け取られる面もあるかもしれません。けれども、私にとってそれはまったく別の意味を持っています。動画をアップすることは「自分が歌っていることを見てほしい」というよりも、「KANさんの音楽がここにある」と示すための行為なのです。
「それなら、KANさんの音源や配信サイトのリンクを張って紹介するだけでいいのでは?」と思う方もいるかもしれません。もちろんそれも素晴らしい方法ですが、私がやりたいのはそれだけではありません。カバーを通して得られた「KAN説的追体験」の要素・・・それは原曲を紹介されて聴くだけでは決して伝わらない部分でもあります。演奏者としてKANさんの世界を追いかける中で見えてきたことを、自分の声やピアノを通じて共有したいのです。
KANさんの作品に触れ、演奏し、そこから得た気づきを「個人のKAN想」として残していく。その記録を公開することは、決して正解を提示するためではなく、同じ音楽を好きな誰かと分かち合うためのきっかけです。私が前に出るのではなく、あくまでKANさんの楽曲が主役。私はその横で、リボンを添える役割を果たしたいと思っています。
そして、この活動を続けていく中で強く意識するのは「リスペクト」の一言です。カバーすることで曲の奥行きに触れ、その深さに改めて驚かされるたびに、KANさんへの敬意はますます大きくなっていきます。動画を公開することは、その敬意を自分なりの形で示すことでもあり、また誰かにとって、KANさんの楽曲に触れる新たなキッカケになればと願っています。
KAN説的追体験は、それぞれの形で
KANさんの楽曲をカバーし続けることは、私にとって一時的な趣味ではなく、これからも長く取り組んでいきたいライフワークです。歌い繋ぎ、追体験し、その中で感じ取ったものを「個人のKAN想」として共有していく・・・それが、ファンとして自分なりにKANさんと向き合い続ける形だと思っています。
もちろん、それは誰かに義務として求めたいものではありません。大切なのは、それぞれの人が自分なりの深さでKANさんの音楽に関わり、楽しむことです。聴くだけでもいいし、語るだけでもいいし、ゆかりの地を訪れるでもいいし、私のように演奏するのもひとつの形。関わり方に優劣はなく、どの関わり方もKANさんを感じる大切な時間になるはずです。
私が続けていくカバー活動は、あくまで「KAN説的追体験」としての試みです。原曲そのものの素晴らしさには到底及びませんが、その一端を汲み取り、自分なりの形で届けることができればと思います。そしてそれが、誰かにとって新しいKANさんとの出会いにつながれば、これ以上の喜びはありません。
最後に、これまで公開してきたカバー動画も紹介しておきます。興味を持っていただけたら、ぜひ覗いてみてください。そして、その時に少しでも「KANさんの音楽ってやっぱりいいな」と思っていただけたなら、それがこの活動を続けている何よりの意味になります。
また、現時点では、それぞれの「KAN説的追体験」について「個人のKAN想」を述べる前の状態の動画が多いと思います。今後、少しずつ、過去のカバー動画の背景についてブラッシュアップを進めていきたいと思います。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。